第3章 その1:「仕事」
K病院での、抗がん剤投与第一回目の実施日が決まった。
約一週間後の、6月9日(2015年)。
どのような反応や副作用が起こるともわからない初回に関しては、ほとんどすべての患者さんは前日から入院するということだった。例にもれず私も、その形をとることになった。
仕事で関わり合う人たちには、知らせないことにした。連絡がとれない期間を想定して、逆算し、仕事の区切りが不自然なことにならないよう、タイミングの調整を重ねた。
個人事業主さん、モノづくり作家さんのホームページの管理や、カタログなどブランティングツールの制作、商用サイトのWebページデザイン、やるべきことはたくさんあった。どれも大好きな仕事で、一時的にでも、手放すことはしたくなかった。けれども、いくら私が努力をしたところで、お客さんが求めるタイミングに合わせることができなければ、それはビジネスにはならないということを、私は痛いほどわかっていた。だからこそ焦りがあった。
私がこの仕事を好きなのは、作家さんの顔が見えるような、あたたかさを感じるモノづくりができるからだ。
編集社で働いていた頃は、キュレーションのための情報データを山ほど扱い、いつも締め切りに追われていた。情報は新しいものであるほど優れていたので、締切間際であっても、更新すべき事項が生じたら、すぐさま修正をかけなくてはいけなかった。仕事が次から次へと湧いて出てくるようだった。
(このときの業務量へのストレスや、残業による不規則生活と食事習慣は、もしかしたら乳がんの成長にすでに関わっていたのかもしれないな、と、今になって思ったりするのだけれど。)
独立してフリーになってから私は、自分のペースで仕事を進めていく中で、自分は「丹念に仕事をすること」が好きなんだな、と実感するようになった。
作家さんのお話をじっくりと聞いて、お人柄をつかみ、その人自身や会社ならではの味わいをどのように商品に活かしていくかを考えたりすることが、とても楽しかった。
編集社では他部署に回していたり外注したりしていた仕事を、ほとんど自分でしなくてはならなくなったけれども、全然苦ではなかった。
へんな表現かもしれないけれど、例えば紙にパンチで空いた穴にも、手仕事の誠実さが宿るような気がする。その手仕事のぬくもりを、大切に大切にあつかい、自分のお客さんのところやその先に届いてゆくことを想像するだけで、ワクワクしている自分がいた。
そうこうしているうちに、お客さんに「杏莉さんにお願いしてよかった、またよろしくお願いします」と言ってもらえることがうれしくて、経営や運営のことをあまり考えなくても、自分で満足できるくらいの収入を得ることができるようになっていた。(そんなにたくさんではないのですが…。)
10年間ほどこのスタンスで続けてきた仕事を、今後も守っていけるか、ものすごく不安があった。
かといって、周りの人々に、事情を知らせることはできなかった。まだ私の心の中には「がん」に対する抵抗感が少なからずあったし、また、急に知らされた人の側からしてみても、私にどんな言葉をかければよいのかわからず困惑してしまうだろうな、と思った。希子さんにすら、カミングアウトすることができなかった。
先のことはわからないけれど、わからないからこそ、準備をしておこう、と思った。
仕事をスムーズに再開できるように、これまでの納品物や案件化しそうなもののデータを整理し、やるべきことリストをつくって時系列にまとめ、自動化できるものはしておいた。
そして、作業的な意味で難易度の低いものをいくつかピックアップし、入院中や投与期間中に少しずつでもこれらを進めていこうと思った。
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