第1章 その4:「その夜」
乳腺外科を出た後、すぐに夫に電話をしてしまった。夫は教育の職に就いており、授業中だとまず電話なんてとるはずがない。相手にとって今がどんな時間なのかを考えることさえせず、電話をかけたのはこのときが初めてだった。折り返してきた夫は私の話を聞くと、淡々と「うん、わかった。」と返事をした。いつも冷静な夫らしい反応だった。
急に、世界に一枚フィルターがかかった。午後からの打ち合わせ中、視界の色彩がワントーン落ちて、周囲の音が聞こえづらくなった。この日、日中のことはほとんど覚えていない。
帰宅後夫は、「電話を切った後、いろいろ考えた。」と言った。慎重な性格の夫は、常に最悪の事態を想定し、あみだくじのように、進んでは立ち止まり、少しずつ調整をしながら物事をすすめていくタイプだ。そんな彼が、「何があっても大丈夫。」と言ってくれた。
別に、がんだと告知されたわけじゃない。子どもを持てないと断言されたわけでもない。それでも私の頭の中は、「最悪の場合」と言った先生の言葉で埋め尽くされていた。「いろいろ考えた。」と言う彼も、きっと同じようなことを思っていたに違いない。「でも、くやしいね。」と彼が言った瞬間、なぜだかわからないけれど涙があふれてきた。
「くやしい。」と言おうとしたら、声にならなかった。そうだ、わたしは悔しかったのだ。この感情は、悲しいとかつらいとかではなくて、これから夫と二人で歩むはずだった普通の未来が脅かされた悔しさなんだ、とはっきりと認識した。「こんなに悔しいんだから、私、泣いてもいいんだ。」と思えた瞬間、張りつめていた緊張の糸が切れ、堰を切ったかのように涙が流れた。夫にもこんな思いをさせてしまい、本当に申し訳ないと思った。
わたしたちは、今まで友好に受け入れられていると思っていた現実の世界に、突然、一方的に、拒絶されてしまった。何も悪いことをしたわけではないのに。こんなに悔しいことって、あるだろうか。
その夜は、二人で泣いた。
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