第3章 その8:「母の愛」
母親に、実家に連れて帰ってもらった。実家は病院から車で20分くらいの距離にある。
母が和室にふとんを準備してくれていたおかげで、帰宅後すぐ横になることができた。横になるなりおそってきた激しい睡魔に勝てず、あっという間に眠りに落ちた。
私が乳がんになったことがわかる前から、母親は献身的にわたしを支えてくれる一番の応援サポーターだった。
彼女自身も、40代のときに大病をわずらい、闘病をした経験がある。
ある日、母は突然意識を失って倒れ、救急車で病院に運び込まれて一命をとりとめた。
1998年のことだった。そこから彼女の人生は一変した。
脳腫瘍だった。主治医の先生から「何かしらの後遺症が残る可能性も覚悟しておいて下さい」といわれるほどのリスクの高い手術は、8時間以上もかかるような大きなものとなった。
手術がもし成功しても、その後どうなるかは母の体次第という暗い将来に、家族のみんなは口には出さないものの「もうだめかもしれない。」と悟らずにはいられなかった。
母はそれでも根気よく治療を続けながらリハビリに励み、その後15年以上かけて、どうにかこうにか健康を取り戻した!か細い印象の母は、外見からはそのようには見えないけれど、人知れず運命に対峙した努力の人だった。
そして、その15年の間には実の母(私の祖母)を看取るという大仕事もなしとげた、尊敬すべき私たちの母なのであった。
母親といえば、ある日、こんな夢を見た。
それはAC投与も中盤に差し掛かって来た8月、この時点から2か月半くらいあとのことだ。
投与から9日目。このサイクルにおいて、いちばんつらいのは5~6日目だけれど、それを通り越しているとはいえ、喉の不快感や吐き気で苦しい一日だった。
女子高生が何名か集まり、私のことを見て笑っていた。彼女たちは、かつて私もそうであったように、若さと健康に満ちあふれている。髪の毛が抜けきっているので、すっかりハゲ頭になってしまった私のことを嘲笑しているのだった。
私は、どこまでも続く暗い廊下を、泣きながら歩いていた。子どものように、うわーんと大声をあげて泣いていた。息がとても苦しかった。夢を見ながら、現実でもしんどかったのだと思う。
その先に明るい部屋があった。中に母親の姿が見えたので、ホッとして駆け込んだ。
「おかぁさーん、ごめんねぇ!」
その瞬間、私はそう叫んでいた。
夢はそこで終わった。目が覚めると、実際にも頬に涙が流れていた。そして、母親にずっと謝りたかったんだと気がついた。
病気になってしまったこと。病気さえなければ、背負うこともなかった葛藤を与えてしまったこと。小さなころ、泣き虫の私に何度も「痛いの痛いのとんでけー!」をしてくれた恩返しとして、夢や希望でいっぱいにさせたかった母の胸を、あろうことかこんなにも大きな悲しみで満たしてしまったこと。
子どものころから少し体が弱かった私のことを、母親は常に気に案じていた。それが時には過剰なお世話とも感じられることもあったけれど、一方では、その優しさにずっと甘えていたいという想いもあった。
病気とは本当に罪なものだ。本人が「病気になってごめんなさい」と、両親に対して考えてしまうことと全く同じように、両親も「病気にさせてごめんね」と感じている。まるで鏡のように、つらい気持ちをも映し合う。でもそれが家族であり、ほんとうの絆というものなのかもしれない。良いことや楽しいことだけを映している鏡はきっと脆くて、いつか割れてしまうのだろう。
抗がん剤の副作用としてどんな体の変化が起こるか、全くわからなかった。もちろん、本やインターネットで事前情報は得ていたけれど、自分の体に起こることとしての実感はこれからだった。
闘病を乗り越えてきた母にもそれは同じだった。母は、入院中に私が食べたいと言ったアップルパイを買って来てくれていた。アップルパイ、確かに食べたいとは言ったけど…なんてお気楽な答えを言ったものだろう~。食べられなくはないけれど、こんな状態になることも薄々わかっていながらアップルパイを律儀に準備してきてくれていた母の愛に感謝した。
眠気、喉の渇き、全身のチクチク感と痒み、悪寒、顔の火照り、むくみ。
まだ大丈夫、まだ大丈夫と自分に言い聞かせながらも、こういった副作用をだんだんはっきりと認識するようになってきた。しゃっくりも出る。これは、精神的な緊張からかと思っていたのだけれど、あとになって副作用の一つだということがわかった。
胸の患部は、相変わらず「ズキズキ」と痛んでいる。
様子が変わったのはその日の夜からだった。
ここからが、わたしの乳がん体験において、心身ともに「本当によく頑張った」ともいえる日々の始まりだ。
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