番外編:「ダイアリー」
「つくづく思うんだけど、杏莉ちゃんて飽き性だよね」と、友人や家族からよく言われていた私が、なんと5年間分も書き込むことのできる日記をつけることを決意したのは、2014年の誕生日のことでした。
夫が「将来のために日記をつけよう」と提案してくれたことがきっかけでした。実は、夫と私は、同じ誕生日。おそろいで、色ちがいの日記帳を買いました。
このときは、自分が子宮頸部高度異形性(CIN3)や乳がんという病気になることなんて想像さえしていませんでした。
今、(日記をつけ始めてまだ2年目ではありますが)こうして読み返してみると、最初の数か月は、あまりにもほのぼのとした内容で、可笑しくなってしまいます。「プリンが美味しかった♡」とか「コンタクトの左右をつけまちがえた~💦」とか、ひどいときには「今日はめっちゃ寒かった!」とか…。一日のイベント、それだけかい!と、過去の自分につっこみたくなります(笑)。
一方、2015年5月22日、がんと告知されてからの日記は…、まだ、今でも、読んでいてつらい気持ちを思い出すことが多いです。抗がん剤投与期間は、ペンを持つこともままならなかったので、空白が続いています。(その期間の体調や心と体の変化は、なんとか毎日、携帯のメモ機能に書き込んでいました。)
そして2015年の誕生日は、抗がん剤「パクリタキセル」の10回目の投与から一週間が経っています。「まつげは一本残らずありません」と書いています。
2016年6月9日。小林麻央さんが乳がんであるということを、夫である歌舞伎役者の海老蔵さんが発表しています。日記に私は「すごくショック…。」と書いています。他人事とは思えませんでした。麻央さんも私と同世代。きっと、すごく不安で、痛くて、辛い思いをしながら、運命に対峙しているに違いありません。陰ながら応援しています。(麻央さん、無理せずゆっくり頑張ってください!)
(それまでにも、俳優の今井雅之さんや女優の川島なお美さん、タレントの北斗晶さんのニュースにも心を痛めました。)
2015年12月21日。手術の日。詳しくはストーリー本文で書きますが、8時間以上を要する手術でした。でも、私にとっては、麻酔から意識が戻るまでは、一瞬のできごと。それ以降の痛みやリハビリからの回復は…本当に自分の身に起こったことだとは思えないような奇跡の連続です。
手術を終え、退院した一週間後にはもう、できる仕事を始めていました。それから3か月後には、子どもたちに自然災害のこわさを伝えるための児童書のデザインを考えています。
仕事に復帰するということは、闘病中の私の目標の一つでもありました。それを叶えることができて、本当に幸せです。仕事に関しては先行きの不安しかなかったので、過去の自分に会って言えるなら「大丈夫だよ!」と言ってあげたいです。
こうして日記を読み返してみると、ああ、本当にすごい体験だったと実感すると同時に、うまく表現できないのですが、闘病を体験してから、ものごとの考え方や感じ方が変わったように思います。
現在でもなお、転移の心配など、不安でどうしようもないときもありますが、先述の通り「一年後か、きっと三年後の自分は、今悩んでいることなんて、大丈夫だよって言ってるに違いない!」という、長期的な視点からの、気持ちの切替えも心がけられるようになりました。
以前は、朝、「目が覚めたから」あるいは「起きなきゃいけない時間だから」、起床していました。ほんとうはもうちょっと寝ていたかったのに、眠いなあ…、なんてしぶしぶ思いながら。
でも、今わたしは、毎日「今日は○○をするために起きた」と、意識して感じるようにしています。それは、ちょっと気を抜くとすぐに、自分の人生を荷物のように誰かに「ちょっとこれ、持っておいて」と渡してしまいがちな他力本願の私が、改めて「この人生は私のものなんだ」と、しっかり手に握りしめる瞬間です。
別に何か大そうな計画があるとかそういうことではありません。
ただ、私は、とっても貴重な人生の時間のひとつひとつに、「今日は○○をするために」という意味をつけ、心身ともに健康に、楽しく誰かと過ごすという、享受と感謝にあふれる毎日を過ごして行きたいと思うようになったのです。
ちなみに今日は、手がけている仕事のWebサイトをデザインすることと、旦那さんが出張から帰ってくる日なので、手作りカレーを作ってねぎらうために起きた一日です^^
いつも杏莉を精神的に支えてくれる旦那さんには、感謝してもしきれないです。2年前の誕生日に、日記をつけよう!と言ってくれたことに、心から感謝しています。ありがとう。
いつか、この日記から始まった「Pink Rebooorn Stoty」が、より多くの皆さまに届きますように。
2コメント
2016.11.29 16:39
2016.11.28 03:22